2009年12月 8日
楊貴妃の生涯
蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄キョウの家で育てられたという。
生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、涙や汗が紅かったという伝説がある。
また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄淡に売られたという俗説もある。
寿王妃から女道士へ
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。
その後、玄宗に見初められ、740年(開元28年)、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠(女道士)となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
楊貴妃となる
745年(天宝4載)、貴妃に冊立され、兄・楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に任じられる。馬に乗る時は高力士が手綱をとって歩き、彼女の院に絹織りの工人が七百名もいた。また、争って様々な献上物を贈られた。そのため、「男を生むとも喜ぶなかれ。女を生むとも悲しむなかれ」という歌が民間で流行ったといわれる。
746年(天宝5載)には、嫉妬(「梅妃伝」では、玄宗と梅妃との関係によるとされる)により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし、玄宗はすぐに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであったため、高力士のとりなしで後宮に戻ってきた話が残っている。それから、玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范楊・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話しが残っている。また、天宝7載(748年)には、三人の姉も国夫人を授けられ、楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。
750年(天宝9載)に、また玄宗の機嫌を損ね、宮中を出される。(一説には、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからといわれる)。しかし、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈ったため、玄宗は高力士に楊貴妃を呼び返させた。その後、さらに愛情は深まったという。751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかし、その後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。
752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
楊貴妃は現代でも世界三大美女の一人とされています。
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